로그인それからしばらく、忙しい日が続いた。病院勤務とプロジェクトに加え、わずかに残しているクリニックの診療もある。どれも一つずつなら無理はない。けれど、急な対応が一つ入るだけで、その後の予定まで簡単にずれた。隼人くんも、クリニックの拡大準備で以前より忙しくなっていた。物件の検討。採用する医師やスタッフとの面談。新しい診療体制の調整。クリニックを広げると決めてから、家の関係者と連絡を取る機会も増えたらしい。電話はしていた。メッセージも途切れていない。それでも、二人で顔を合わせる時間だけが、なかなか作れなかった。こちらが空いている日は隼人くんに打ち合わせが入り、隼人くんから提案された日は、私が夜勤になった。会えないことを、以前より寂しいと思う。その感情を、もう否定する必要はなかった。そんなある日。真哉兄さんから、メッセージが届いた。『そろそろ、ギャラリーで話していた食事を実現させよう』ギャラリーで隼人くんと会った時、兄は確かに、次は落ち着いて話そうと言っていた。その場の挨拶だと思っていたけれど、忘れてはいなかったらしい。『隼人くんも一緒?』『そのつもりだ』『三人の予定を合わせるの、大変そうだけど』『だから早めに調整する』兄らしい返事だった。隼人くんへ伝えると、少しして電話がかかってきた。『行く』「まだ日程も決まってないけど」『先に、行くって伝えて』返事は早かった。「前にも会ってるでしょう」『あれはギャラリーで少し話しただけだから』「真哉兄さん、面接するわけじゃないよ」『分かってる』隼人くんは、いつもと変わらない声で答えた。『でも、綾香ちゃんの家族には、きちんとしておきたい』その言葉が、胸の奥へ静かに残った。***そこから実際に日程が決まるまでには、思った以上に時間がかかった。最初の候補日は私が夜勤。次は、隼人くんが拡大に関する打ち合わせ。ようやく二人の予定が空く日を見つけると、今度は真哉兄さんが、病院建設の現地確認で戻れなくなった。何度か候補日を出し直し、最初に話が出てからしばらく経って、ようやく三人の予定が重なった。隼人くんと二人で会うよりも先に。真哉兄さんを交えた食事が、実現することになった。店は、兄が仕事でも使うという個室のある和食店だった。落ち着いた照明に、濃い木目の壁。外
***病院を出る。朝の光が。思っていたより眩しかった。駅まで歩く途中で。スマホが震える。隼人くんからだった。電話に出る。「もしもし」『夜勤終わった?』「今終わった」『声、疲れてる』「夜勤明けだから」『寝てない?』「少しは寝たよ」『少しって』少し責めるような声に。私は笑った。「隼人くんは?」『今からクリニック』「早いね」『そっちほどじゃない』歩きながら。夜勤のことを。簡単に話す。大きな問題はなかったこと。それでも。一つだけ。判断に迷ったこと。郁人先生に。問題ないと言われたこと。そこまで話してから。通話の向こうが。少し静かになった。『兄貴に?』「うん」『会ったの?』「休憩室で」「手術終わりだったみたい」『二人で話したんだ』「誰もいなかったから」何でもないこととして答える。隼人くんは。少しだけ間を置いた。『兄貴から』「うん」『綾香ちゃんのこと』「質問したの?」「夜勤に慣れたかって」『兄貴が聞いてきたの?』声の温度が。ほんの少し変わる。私は。意味が分からず。「そうだけど」と返した。『珍しいな』「何が?」『兄貴から』『人に質問するの』「するでしょう」『必要なことは聞くけど』「仕事のことだったよ」『それでも』隼人くんは。少し考えるように言った。『自分から聞いたんでしょ』「大袈裟だよ」私は笑う。「たまたま休憩室にいて」「何となく話しただけ」『何となく』「そう」「私も」「こっちの病院によく来るんですねって」「聞いたし」『それで?』「研究と」「家の仕事もあるからって」「全部両立してるのがすごいって話した」また。少しだけ沈黙が落ちる。「何?」『別に』「変なの」『兄貴が』隼人くんは。少しだけ声を低くする。『何でもない話を誰かとすることが』『ただ、珍しいだけ』私には。そこまで珍しいことには思えなかった。郁人先生は。聞けば答える。必要なら。向こうから質問もする。今日も。ただそれだけだった。「隼人くんが」私は言う。「郁人先生のこと」「大袈裟に見てるだけじゃない?」『そうかな』「そうだよ」『会えてないから』一瞬。話が変わる。「え?」『最近』『全然会えてないから』拗ねているように
気まずくはなかった。私は。コーヒーを飲む。郁人先生も。窓の外を見ている。普段なら。会話が途切れた時点で。そのまま立ち上がる人だと思っていた。でも。今日は。まだ席を立たなかった。「夜勤は」郁人先生が。不意に尋ねた。「慣れましたか」顔を上げる。郁人先生から。私のことを聞かれるとは思っていなかった。「少しずつ」答える。「でも」「毎回違うので」「慣れたと思った頃に」「また分からなくなります」「それが普通です」「郁人先生にも」「そういう時期があったんですか」「ありました」「意外です」「なぜですか」「最初から」少し考える。「何でもできそうに見えるので」郁人先生の眉が。ほんのわずかに動いた。「それは」「見え方の問題です」「実際は違う?」「違います」即答だった。少しだけ。おかしくなる。「ちゃんと」「できない時もあったんですね」「あります」「今もあります」「そう見えないです」「白松先生も」郁人先生が。私を見る。「そう見えることがあります」「私が?」「はい」「全然です」反射的に答える。「分からないことばっかりです」「分からないまま」「止まってはいないでしょう」郁人先生は。淡々と言った。「それなら」「周りには」「できているように見えます」褒められたのか。ただ事実を言われたのか。分からなかった。郁人先生の場合。どちらでも。あまり言い方は変わらなさそうだった。「そういう見方も」「あるんですね」「あります」また。短い返事。でも。会話は終わらなかった。郁人先生が。私の夜勤について。もう一つ尋ねる。「救急は」「多かったですか」「昨日はそこまで」「でも」「夜中に一度」「判断に迷う患者さんがいて」話し始めると。郁人先生は。途中で遮らずに聞いた。症状や。細かな治療の話ではない。判断に迷った時。誰へ相談したのか。どの時点で。上の医師を呼んだのか。必要なところだけ。いくつか質問される。「それなら」最後に。短く言った。「問題ないと思います」「本当ですか」「はい」「もっと早く呼ぶべきだったか」「少し気になってて」「結果だけを見て」「早い遅いは決められません」郁人先生は。水のボトルを置く。「迷った時
夜勤が終わったのは。朝の七時を。少し過ぎた頃だった。最後の申し送りを終え。記録を確認して。ようやく。白衣のポケットから。ペンを抜く。途中で。短く座る時間はあった。けれど。まともに休んだ感覚はない。眠いというより。身体の内側に。疲れが沈んでいる。医局へ戻る前に。何か温かいものを飲もうと思った。職員用の休憩室へ向かう。自動販売機の前で。コーヒーを選び。紙コップが落ちる音を聞いた。その時。後ろの扉が開いた。振り返る。郁人先生だった。手術着の上に。薄い上着を羽織っている。髪は。普段より少しだけ乱れていた。病院で会う時も。表情を大きく変える人ではない。けれど。今日は。さすがに疲れているのが分かった。「お疲れさまです」声をかける。郁人先生も。私を見る。「お疲れさまです」自動販売機の横へ立ち。水のボタンを押した。「手術ですか」「はい」「長かったんですか」「少し」少し。という顔ではなかった。でも。本人がそう言うなら。それ以上は聞かなかった。郁人先生は。水を受け取り。休憩室の中を見る。他には。誰もいない。「座りますか」私が言うと。一度だけ頷いた。二人で。窓際の席へ座る。会話をするために。一緒に座ったわけではない。ただ。立ったまま飲むほど。二人とも元気ではなかった。***朝の光が。ブラインドの隙間から入っている。私は。紙コップを両手で包んだ。熱さが。冷えた指へ伝わる。郁人先生は。水を半分ほど飲んでから。背もたれへ身体を預けた。いつもより。ほんの少しだけ。力が抜けている。「郁人先生は」私は言った。「こっちの病院に来ることも」「多いんですね」病院で。何度か顔を合わせている。プロジェクトにも入り。手術にも来る。ただ。常勤ではない。どこまで。この病院へ関わっているのか。よく分からなかった。「研究と」郁人先生は。当たり前のように答えた。「家の仕事もあるので」「家の仕事?」「病院や」「医療法人に関係するものです」やはり。説明は短い。でも。聞けば答えてくれる。「全部」私は。紙コップへ視線を落とした。「両立できてるのが」「すごいですね」郁人先生が。こちらを見る。「できているように見えま
「隼人くんは?」『今、移動中』「クリニック?」『今日は家の方』その言葉に。少しだけ。郁人先生のことを思い出した。ちょうど。建物の出口の先に。郁人先生がいた。病院側の担当者と。話を終えたところらしい。こちらへ向かって歩いてくる。目が合う。郁人先生が。短く会釈をした。私も。スマホを耳へ当てたまま。軽く頭を下げる。『誰かいる?』隼人くんが尋ねた。「郁人先生」通話の向こうが。ほんの少しだけ静かになる。「プロジェクトで」「少し話しておきたいことがあるから」郁人先生が。少し離れた場所で。こちらを待つように立ち止まった。「話した後に」「掛け直していい?」隼人くんは。すぐには答えなかった。聞こえたのは。車が走る音だけだった。それから。いつもと変わらない声で返す。『兄貴と仕事の話が終わったら、かけて』「うん」『待ってる』通話を切る。画面を閉じると。郁人先生が。こちらを見ていた。電話の相手が誰だったのか。聞こえていたのかは分からない。ただ。いつもより。ほんの少しだけ。私の顔を長く見た。「お待たせしました」私が言うと。郁人先生は。何も尋ねなかった。「いえ」短く答える。「何かありましたか」「次の確認について」私は。鞄から資料を出す。「郁人先生に」「聞いておきたいことがあって」「分かりました」郁人先生は。資料へ視線を落とした。けれど。すぐには話を始めず。一度だけ。私の手にあるスマホを見た。それから。何もなかったように。資料の該当箇所を示した。***「ここです」私は言った。「手術後の患者さんを」「地域へ戻す時に」「病院側で」「誰が最終的に条件を決めるのか」「先生によって」「違うと思うんです」郁人先生は。資料へ目を通す。「そうですね」「主治医だけでは」「決められない場合もあります」「では」「一人の名前を」「必ず入れる形にはしない方がいいですか」「決める人より」郁人先生は答えた。「誰が確認したかを」「残す方がいいと思います」「複数でも?」「はい」端的な説明だった。それでも。私が疑問に思っていた部分は。すぐに整理できた。「ありがとうございます」「これで」「次の会議でも説明できます」「白松先生が」
視察から数日後。プロジェクトの振り返りが行われた。会議は。予定より少し早く終わった。大貴は。システムの担当者と。修正する画面について話している。郁人先生も。病院側の担当者から。質問を受けていた。私は。資料をまとめ。先に会議室を出た。廊下を進んだところで。優に呼び止められる。「綾香」振り返る。優は。手にしていた書類を。鞄へしまった。「何?」「少しだけ」一度。言葉を選ぶように間を置く。「話せない?」「仕事の話?」「違う」優は。曖昧にせず答えた。「プライベートの話」私は。何も言わず。優を見る。前なら。聞いた瞬間に。断っていたと思う。仕事以外で。優へ時間を使う理由はない。そう思っていた。けれど。最近は。仕事の場で会っても。不快にはならない。少し踏み込まれても。以前のように。すぐ遠ざけたいとは思わなくなっていた。優も。無理に距離を詰めようとはしていない。会議の時は。仕事だけをする。私が拒めば。それ以上は続けない。その約束は。今のところ守っていた。「今も」私は尋ねた。「全く話す機会をもらえないって思ってるの?」優の表情が。わずかに変わる。「思ってる」「話したいことがあるの?」「ある」「でも」優は。すぐに続けた。「今ここで」「無理に聞いてほしいわけじゃない」以前とは違う。そう思った。優は。話したいと言いながら。聞くことを強制しない。私が決めるのを。待っている。「約束を守るなら」私は言った。「少しくらい」「時間を取ってあげてもいい」優が。息を止めたように見えた。私は。その反応を待たずに続ける。「昔のことを」「私が聞きたくない形で」「一方的に話さないこと」「やり直してほしいとか」「答えを求めないこと」「それから」優の目を見る。「不快だと思ったら」「私はその場で帰るから」優は。すぐには答えなかった。驚いているようにも。少し安心しているようにも見えた。「分かった」やがて。静かに頷く。「全部守る」「なら」私は答えた。「今度」「少しくらいなら」優の口元が。わずかに緩んだ。でも。嬉しいと口にすることはしなかった。すぐに。表情を抑える。「時間は」「綾香が決めて」「そうする」
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。